城端絹起源伝記


 城端の絹織物業の起源について水月寺鎮座の「天満宮縁起」には次のように書かれている。
 昔南朝の武士に畑六郎左衛門時能(ときよし)がいた。新田氏に属し畑将軍と呼ばれ勇猛高き武将であった。延元3年(1338年)越前で新田義貞が足利軍に討たれた後も、高栖城に籠り足利軍と戦ったが、興国2年(1341年)遂に敗れその地で戦死した。その子玄條は一族郎党を率い初め飛騨白川郷鳩ヶ谷に落ち再起を図るが、その後庄川に沿って五ケ山に潜入し、次に大鋸屋に居を構える。三代の掃部、四代前京、五代左京と大鋸屋に居住したが、文亀の頃(文亀1年=1501年)六代久左衛門の代に城端へ移住する。七代孫助、八代の庄右衛門と続いた。

 この掃部の代に武士を捨て、名も庄左衛門と改め商売に従事した。庄左衛門がある日、京の都に登り北野天満宮に参詣し、神前に二十一日間籠り一心に城端の繁栄を祈念したところ、暁夢に白髪の老翁が出現し、我が昔筑紫の大宰府に移るとき家臣に自筆の像を賜え、我に仕えると思いこの影像を崇めよと言いし、故あって今はその国の領主荒木が方でこれを所持しており、早くこれを求めて信心すべし、とのお告げをうけた。城端に帰った庄左衛門は早速領主より尊像を貰い受け信仰したと言う。さらに産業の興隆を願い七日間祈願したところ糸絹を業とすれば市中繁昌まちがいなしとのお告げがあり、庄左衛門は絹織物を始めた。これが城端絹織物の始まりだと言われる。

 その後、庄左衛門の子孫は代々絹織物の発展に努めたので絹織物が城端町で盛業となり、この尊像のお陰とし家宝として敬った。八代庄右衛門の代になり小松中納言(前田利常公)より絹織物業の元祖だから絹屋と称すことを許された。これにより天正5年(1577年)に畑氏によって城端で絹織物が始められたと伝聞されている。

 絹業商売守護の神として崇められたこの尊像は、絹屋より城端町野下の水月庵に寄進され、現在城端町並びに近隣の繊維に携わる人々に機神様として崇拝されている。水月寺は曹洞宗の寺院であり、菅原公直筆の自画像を祀るところから、水月庵天満宮とも称せられる。  



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